Japanese Society for Palliative Medicine
News Letter No.39
日本緩和医療学会ニューズレター
May 2008  39
Current Insight
死を認められない日本人:
病院は“殯宮”、心肺蘇生術は“招魂儀式”なのでは?
山口大学大学院医学系研究科医療環境学  谷田憲俊
 今のご時世、(DOAの範疇に入らない)死者が病院に救急搬送される。和歌山県立医大付属病院紀北分院事件では「呼吸停止が確認された病死患者に再び人工呼吸器を装着しなかったことは殺人だ」と断じられ、実質的に「病死した患者には人工呼吸器を装着せよ」と命じられたことになる。類するような“医学的には死亡した患者”に心肺蘇生術が当然のように行われる。「死亡した患者に人工呼吸を施さなければ殺人だ」という考えは、知性や理性で説明できない。
 脳死問題において「脳死は死でない」という意見が強く表明されて、日本人の死生観が大きな話題になった。呼吸停止しても人工呼吸器を装着すればある程度の時間心臓を動かし続けられるので、脳死状態を“死亡した患者”に作り出すことが可能である。すなわち、「脳死は死でない」と「心肺停止した状態は死でない」は同根とみることができる。
 多くの文化では、死亡するのを「息が絶える」と表現する(英語で“expired”)。しかし、日本人はそれを死と考えなかった。「息が絶える」のは「魂が離れるから」と考えて、魂に戻ってくるように願う「招魂の祈り」を行った。例えば、柳田國男は「呼吸が切れてもそれだけでは死んだとは解し得られない」「魂呼(たまよ)ばいをした」としている。人々は殯宮(もがりのみや、あらきのみや)を造って、魂に戻るよう祈りを捧げた。折口信夫によれば、「死」は「くたくたになる」ことを意味するという。
 これら日本文化は「心肺停止は死でない」を示唆し、それゆえ患者の死には「ご臨終です」すなわち「終わりに臨んでいる」と宣告する。伝統文化は意識されないまま人々の心深く伏流のように流れている。昭和天皇にも殯宮が造られたし、決して過去の考えと切り捨てることはできない。そういった死生観を考えれば、「心肺停止は死でない」という日本人の考えが理解できる。すなわち、「病院は“殯宮”、心肺蘇生術は“招魂儀式”」ではないだろうか。“信仰”に基づくゆえ、知性や理性で延命措置への理解が不可能なのである。付け加えれば、「医師がまき散らしてきた医療に対する幻想」はこれらの“信仰”を強めてきたように思う。このような状況に対して医科学的知見の押しつけは有効な手段ではないので、患者・家族の心情(文化的背景)を認め配慮しつつ臨死期のケアにあたることが大切と思う。

追記:この領域の課題に関しては、さまざまな意見交換がなされることが必要と思います。どうぞ、今回のご意見に端を発して、更に多くの方々より、ご意見をお待ちしています。 (編集委員会より)

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