Japanese Society for Palliative Medicine
News Letter No.34
日本緩和医療学会ニューズレター
Feb 2007  34
学会印象記
第8回米国生命倫理学会
(American Society for Bioethics and Humanities)に参加して
高知女子大学  斎藤信也

 第8回の米国生命倫理学会(正確に訳せば、米国生命倫理・人文(?)学会)は、2006年10月26日から29日までの4日間、コロラド州のデンバーで開催された。今回は広島県立大学の山口先生のお供をして、初めて同学会に参加する機会を得た。参加者は11カ国から766人とこじんまりとした会であったが、会場は熱気にあふれ、講演あるいは口頭発表後のディスカッションにはマイクの前に長い列ができるほどの、活気に満ちたものであった。
 オープニングにはコロラド州の前知事で現コロラド大学の教授であるRichard D Lammの講演があり、その内容は政治家らしく、医療・保健の倫理はマクロのレベルでの考察が必要であるという主旨であった。米国における膨大な社会保障費(軍事費よりも圧倒的に多い)を若い世代につけ回すことをPonzi game(ネズミ講)と呼んでいたのが印象的であったが、つまりは、倫理学者たちはミクロ、即ちヒト対ヒトのレベルでの倫理にこだわっているが、場合によってはそのレベルでは非倫理的と見えるような行い(医療費削減による患者選別)も、マクロレベルでは正当化される可能性があるということを強調していた。さすがに、かつて「高齢者は死ぬ義務がある」"Elder's Duty to Die"と発言した有名人であるであるだけに、それなりに説得力のある内容であった。(もちろん、筆者はこうした功利主義的主張に決して同意しているわけではない。)
 今回の学会では特に緩和医療と倫理と銘打ったセッションはなかったが、一般演題で「The Tyranny of the Good Death: Whither the Minority View in a World of Dedicated Palliation?(良い死という暴虐:献身的緩和の世界における少数者の視点は何処へ?)」(Rubin SB, Oakland , CA)という発表があった。要約すれば、生命倫理学から見れば、緩和医療はcontent-freeであるべき(たとえば「良い死」概念のような哲学的内容を持つべきではない)であり、単に症状緩和の技術を提供するだけでよいという主張であった。これに対しては、真摯に日夜緩和医療に取り組んでいる我が国の医療関係者からは大いに異論があるとは思われるが、このように敢えて厳しいことを言うのが非医療者であり、生命倫理学者の役目であるとも思われた。
 緩和医療学の隣接領域といってもよい生命倫理学を4日間にわたって勉強できた良い機会であったが、いかんせん一般医師にすぎない筆者にとって、人文科学系の専門用語は耳になじまず、どの程度その内容が把握できたかについては、はなはだ心許ないものがあったことを正直に申し添えておきたい。

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