Japanese Society for Palliative Medicine
News Letter No.22
Feb 2004

日本緩和医療学会 ニューズレター第22号

巻頭言
私が腫瘍内科医になったわけ
国際医療福祉大学教授・山王メディカルプラザオンコロジーセンター長  渡辺 亨
 私が腫瘍内科医として、乳癌治療に専門的に携わるようになって20年近くになる。そのきっかけは、国立がんセンター病院内科レジデントとしての経験と阿部薫先生(国立がんセンター名誉総長、現横浜労災病院院長)との出会いである。師匠の阿部先生は、当時、現役ばりばりで、内分泌部長としてケーシータイプの白衣を着て、外来、病棟回診を精力的にこなしていた。ある日の外来で、PS4、意識朦朧状態、極度の脱水、激しい全身痛を訴え、進行乳癌患者が救急車で受診、即入院となった。阿部先生は「この人は1−2ヶ月で歩いて帰れるようになるから見ててごらん。」とおっしゃり、私が担当することになった。内心私は数日持てばいい方だろうと思った。全身骨転移、高カルシウム血症と診断、治療は生理食塩水補液、利尿剤とステロイドを使用、当時は、ミソラマイシンも、ビスフォスフォネートもなかったしMSコンチンもまだ発売されていなかった。数日で意識も清明となりホルモン剤のタモキシフェンを処方した。数週間で、痛みが消失、骨硬化像も出てきて2ヶ月後に退院した。ホメオスターシス(恒常性維持)という内科学の基本を学んだような気がする。4年間の米国留学後、国立がんセンター病院にスタッフとして戻った時、先述の骨転移の患者さんが、肝転移で入院することになった。肝臓は臍の高さまで腫れ腹水もありとても苦しそうだった。抗がん剤治療(AC)が良く効いて肝臓の腫れが引き、お正月を自宅で過ごし、桜の咲く頃に亡くなった。抗がん剤をうまく使えば症状緩和につながるpalliative chemotherapyという概念を学んだような気がする。当時は、まだ、「癌と闘うな」という間違った扇動はなかった。その後、パクリタキセル週一回投与法の普及や分子標的薬剤ハーセプチンの臨床導入に関与し、palliative chemotherapyを推進することができた。昨年9月、16年勤務した国立がんセンターから一民間病院に転出、「オンコロジーセンター」を開設した。辻々の交番のように、全ての家庭から歩いて30分の距離に標準的抗がん剤治療を提供できる拠点の設置がこれからの目標である。

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